第117回「いつまで手直し主義で逃げるのか」

 安易な手直し主義で、いつまで実態から逃げ続けるのだろう――4月にあった二つの出来事は、日本の停滞ぶりを象徴して深いところで繋がっている。みずほ銀行などの発足に伴う大規模システム障害は収拾されそうに見えて、また新たな混乱を露呈する展開が続く。富士銀、第一勧銀、興銀の3行合併、再編で別々のシステムを持っていて抜本的統合が出来ず、当面は各システム間をつなぐ中継システムを新設して対処した結果だ。4月19日、国立大学協会は臨時総会を開き、文部科学省調査検討会議が出した国立大学法人化の最終報告に対して「おおむね同意できる」との会長談話を賛成多数で承認した。大学人自らに改革する力が無いと認めて、これまで拒んでいた行政法人化への制度手直しに同意した。民間企業が巨大合併をしても、中身を変える決断が無いなら新たに生み出すものはない。国立大学にも中身を変える意思があるのか、いま問われれば否定的にならざるをえない。


◆システム統合に欠けた最低限の常識

 欧米の金融機関のように金融工学を駆使し業績をあげることは苦手でも、日常の業務はこつこつと几帳面に、間違いなく果たす。それが日本の金融機関が持つ最大の美点のはずだった。しかし、几帳面に果たせばよいのは平常時の話で、新しいシステムを構築する段階では決断の連続になる。

 「みずほのトラブルを巡るコンピュータメーカーの思惑」で中上真吾氏は今回の経緯についてこう説明している。

 「99年8月の統合発表以来、各行間のコンピュータシステムの統合は、最大の課題となっていた。もともと富士銀行はIBM、日本興業銀行は日立製作所、第一勧業銀行は富士通というように、まったく異なるメーカーの基幹システムが導入されていただけに、統合にかかわる手間と労力は大変なものが強いられたのは容易に想像できる」

 「3行の既存システムを中継コンピュータで接続し、1年後に、第一勧業銀行が導入していた富士通の基幹システムをベースに、3行のシステム統合を図るという仕組みが採用された。だが、中継コンピュータにプログラムミスによるシステム障害が発生」「銀行間の情報システム部門同士の連携不足、そしてメーカー間の連携不足は否めない」

 非常に困難な作業が予想されて、それが予想通りだっただけなのだろうか。

 MSNマネーの「みずほ銀行のシステムトラブルから学ぶこと」で外資系金融コンサルタントの円城寺真哉氏はこう指摘する。「この問題の背景には旧銀行間のいわゆる主導権争いがありました。それは裏を返せば、リーダー・シップ不在の合併であったということに他なりません」

 さらに、システムのあり方そのものについての考え方も甘い。

 「外銀の場合、自分達のやりたいことやノウハウがまずあって、それを効率よく実現してくれる“道具”としてシステムを捉えているのに対し、邦銀の場合はシステムを、投資さえしておけば何かしら自然と便利にしてくれる“魔法の箱”のように捉えているように感じられる」

 違うやり方をしていた三つの銀行を統合するには、取りあえずの中継システム設置だけではなく、顧客とのやり取りの仕方など事細かな仕様をどんどん統一して行かねばならない。

 「合併によるシステム統合作業にはこういった細かい“決め事”がたくさんあって、その1つ1つを迅速且つトップダウン的に決断・解決していかなければならないということを、経営自身がしっかり認識し実行していかないと、あのような大トラブルをまねいてしまうのです」

 今回の内実はやはり経営陣が判断をせず、システム作りの現場に丸投げしていたと思わせるデータを、「think or die」の「愛と苦悩の日記 2002/4/19」で見つけた。

 「みずほファイナンシャルグループのシステム障害、僕が所属している企業でも会計システムの入出金部分に大きな影響が出たようだ。いちばんバカらしいと思ったのは入出金明細に相手の会社名が記載されなくなったため、債権債務の自動消し込みが不可能になったこと。みずほに問い合わせたところ『新システムの仕様です』という客を客とも思わないような回答があったらしい」

 すべての顧客に対して従来サービスの仕様を引き継ぐのが、銀行が合併をした場合で最低限のルールではないか。これは驚くべき怠慢である。システム担当の役員はこんな常識的な指示さえしなかったと思われる。

 ここではさらに、障害発生の遠因に情報を扱うシステムエンジニアの慢性的な不足があると指摘されている。

 「とくにここ数年、銀行の大型合併が集中したため十分な人員が手当てできなかったようだ。現代社会の根幹となるコンピュータの技術者不足はいわば国家的な問題。情報技術者の育成には一定の知的水準をもつ若者を数年かけて教育する必要があり、専門性が高いため他職種からの転換が難しい」「企業経営者や経済団体が情報技術者の育成について、いかにいい加減な考えしか持っていないかの証拠である」

 ソフトウエア開発に人材なしと書いた前回「半導体技術に頂点が見えた今」をリリースした後、民間企業でソフトウエア開発をしている読者からこんなメールをいただいている。

 「教育システムに間違いがある以前に、そもそもソフトウェアを開発する人なんてのは、会社員の中のひとつの事務手続きの一形態に過ぎないとしか思われていないのではないか、と思います」

 「印鑑の押しかた(キーボードの押し方)が分かればいいのです。論理的にイメージを構成してそのとおりにシステムを構築するなんて、どうせ給料高くないし大したことはない――ってことに日本社会はなってるのではないかな、と思います。なにせソフトウェア開発をやっても、なんのインセンティブもありませんし。税金取られるだけ。体壊すだけ」

 この読者は「教育システム変えるには、日本自体の、そのような仕組み全体変えることが必要だと思います。教育だけ変えるのは無理なのでは」とも言っている。日亜化学で青色発光ダイオードを開発した中村修二氏の処遇がわずか2万円の報奨金だったことが端的に示すように、日本の企業社会では創造的な仕事をしていることに、ふさわしい敬意も報酬も与えられない。いや、何が創造的なのかすら理解されていない。

 企業経営にとって何が大事か分かっていない「みずほ」の例を知れば、不思議とするに当たらないだろう。長い右肩上がりの時代に前例マニュアル集だけ繰って過ごしてきた人が、幹部としていかに多数を占めることか。

 次に取り上げる国立大の行政法人化は、産業界の要請から形になった面がある。自分では変われない産業界が、大学にだけ変わってくれと無理強いしているとも見える。


◆大学で変わらねばと思う人は少数派

 第114回「大学と小泉改革:担い手不在の不幸」と続編第115回を書いてから、高等教育フォーラムで大学人の皆さんを含めて、しばらく討議を続けてみた。詳しくはそちらで読んでいただきたいが、私が得た感触はこうだ。本当に変わらなければと思う人は、国立大学ではほんの少数派なのではないか。独立行政法人化に反対しているグループと文部科学官僚とは激しく対立しているように見えて、あまり変わりたくない本音では意外にも最も近いのではないか。

 国立大学独法化阻止全国ネットワークの「文部科学省交渉記録」は、いろいろな意味で本音が見えて面白い。まず、大学の業績を評価して予算を増減しようとしている点について、こうやり取りがある。

 「ネット:評価を次の予算に反映させるというときに、優れた評価にはさらに予算を多くしましょうという意味合いで書かれていると思うんです。そのことが問題じゃないですか」
 「文科省:どうしてです。どうすればいいんです」
 「ネット:だってスタートが違う」
 「ネット:レベルが……」
 「ネット:もっと多くすれば」
 「文科省:みんな平等な条件に、移し返すんですか」
 「ネット:そうです。その方向で行くべきです」
 「文科省:それは、日本の学術研究の自殺行為ですよ。はっきりいって」


 現状から変わるどころか、この反対グループの頭の中では研究費の均等配分という牧歌的世界が志向されている。さすがに文部科学官僚は同意しかねたのだが、こう付け加えるのも忘れない。

 「今、アメリカ独り勝ちの状態ですよね。大学の教育・研究というのは。2位グループが、ガーンと離されていますよね。日本は、いい線いっていますよ、2位グループの中では。教育・研究の成果は。それは立派だと思っています。特に、それは国立大学が引っ張っているのは間違いないです。だと思うけれども、やはり離された2位グループじゃなくて、もっと教育・研究の中身を充実できるようにしていきたい。だから、今先生方に申し上げたようなことじゃなくて、外に向かってはもっともっと大学に対する投資を増やすべきじゃないかということを言っています」

 文部科学省にとって、国立大学の現状に大きな問題があるとの立場は採りたくないのだ。自らの失政を認めることに直結する。行政改革上の要請で公務員定数を減らすために行政法人化はするが、劇的な変革はしたくない。いや、その必要を認めない。

 4月9日にあった中央教育審議会の第5回基本問題部会に「教育の目標を達成するために総合的かつ計画的に実施すべき施策(たたき台素案)」が提出されている。「教員・学生の流動性の確保」として「各大学の教員中、自校出身者の割合を一定割合以下にする数値目標の設定等を大学に求める(現在約36%)」がうたわれている。36%は低いともとれるが、別に添えれられている「高等教育に関する資料」には「本務教員の自校出身者の占める割合」は大学院についてだけみると62%もあり、大学院重点化を果たした有力大の実態は違う。

 現在の国立大間を教員が動くことは人事異動に過ぎない。しかし、行政法人化した後なら別の法人間であり、解雇・新採用に変わる。現状の澱んだ学閥人事が本当に固定化されてしまうことに対する窮余の策として、数値目標の設定がこの段階で持ち出されたのだろう。任期制も取りざたされてはいるが、当然ながら既得権は守られ、新しく採用される若手中心に制約が課されよう。

 大学は無理強いされているのだ――大学人の被害者意識は佐々木毅・東大学長の卒業式での告辞 にも色濃く出ている。

 「日本経済の不振の最大の原因を大学の研究教育に求めるような議論があります。しかし、あたかも大学が莫大な不良債権の原因であるかのような議論は正気の議論とも思えません。また、大学から成功赫赫たるベンチャ−企業が大量に発生し、そこに日本経済の回復シナリオの一つの核心があるといった発言が新聞紙上に溢れていますが、私はこうした議論が『奇跡』頼みのものではないかということを心から恐れております。他の先進諸国と比較して日本の高等教育への投資が対GDP比で圧倒的に低いことはすでによく知られております。それは皆さんがこの数年間を過ごした施設の貧弱さに如実に現れております。こうした事実を無視し、その上極端な悲観論に基づいて勝手な大学バッシングを繰り広げることは自ら墓穴を掘るようなものです」

 変わる必要がない?そんなはずはないと、これまで私は主に科学部での取材経験をもとに書いてきた。実は科学部を出てしばらく遊軍記者をしていて、社会科学系、人文科学系の学会でも何となく気に入ったものを取材するのではなく、一応はすべてあたる科学部でのシラミ潰し方式を持ち込んだことがある。その経験では社会・人文系も問題ありだった。

 掲示板・研究する人生「日本の研究者と海外の研究者のちがいについて」で、当を得た指摘を見つけたので引用させていただく。英語圏で教鞭を執っているという方がこう述べている。

 「社会科学(ただし法学は除く)では圧倒的に英語圏のほうが進んでいます。それは、英語圏の大学院での訓練方法が充実しているからです。まず、方法論やリサーチ・デザインの訓練があり、専門分野の鳥瞰図を養うための試験(普通コンプレヘンシブ・イグザミネーションと呼ばれるもの)があります。日本の社会科学系の院では(経済学はいざしらず)一般的に言ってそういう制度はありません」

 「アメリカのやり方は一種のドリル方式で、仮に頭がよくなくても体系的に訓練されていって(脱落率50%を生き残れば)なんとか終了時には教育者・研究者としての基本的準備が整った人材を輩出できるという制度。日本は」「少数の天才に依存し『多数の鈍才』は見捨てる制度。国の政策の視点にたち、長期的に考えて、人材養成制度として両者を比較すれば日本の方が劣っているのは明らか。どこの国にも天才はいます。問題は鈍才の処理」



 実は理系であってもほぼ同様の問題がある。「蛸壷的知識」に凝り固まっている教授の下で研究者としてのトレーニングが十分に出来ようはずがないし、教育面で考えても実社会に出て使える人材になるとも思えない。日本の実社会と大学で並行して進んでいるシステム的思考の欠如、人材育成怠慢の責任が大学にあると一方に押しつけるつもりはないが、座して動かないのでは解決はありえない。大学人が行政法人化という手法上の手直しだけ受け入れ、被害者意識に囚われている限り、見通しは極めて暗い。