ライブドアPJに忠告し忘れた欠陥 [ブログ時評10]

 ニッポン放送株の電撃取得、フジテレビ系列メディアの支配でも目論むのかと世情お騒がせなライブドアが今度はPJ(パブリック・ジャーナリズム)ニュースを立ち上げた。「特集・パブリック・ジャーナリスト宣言(1)」はマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」冒頭を文字って始まっているのだが、ご当人達が意気込んでいるほどにはジャーナリズムの世界で注目されていまい。その証拠に、「『マスコミ』というジャーナリズム界の異質者」を血祭りに上げているのに『マスコミ』からの唯一のレスポンスを、私の連載第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」から取っている。少なくとも私はマスコミを代表していないし、会社の仕事と切れている時はネットジャーナリズムと言うべき所に立っている。

 昨年末から度々、ライブドア側からパブリック・ジャーナリズム立ち上げに向けて取材したいとメールがあり、お世辞を使う必要も無いので率直に「難しいでしょう」と意見を述べ、あまりにうるさいので明解なところを文字にしたら良いだろうと「ブログから生まれるジャーナリズムは」を書いて、やり取りはお終いにさせてもらった。1988年初めに当時は社業でネットに携わってから、ネット上活動をずっと続けてきたので、ネットのことで話を聞きたい人には出来る限りの応対をしてきた。うるさいのも限界と感じた理由は、何でライブドアのために、こんな時間を使わねばならないのか、素朴な感情として納得がいかなかったからだ。

 グッドタイミングで「宣言」が出て、事態は明瞭になった。マネーゲームの野望、その一翼を担うニュース部門が「自らの『活私開公』を目指す個人としてのパブリックが集い主体となって、『客観的真理』『規範的な正しさ』『主観的な誠実さ』といった理想論的な対話基準のもと……」と掲げて、世間が額面通りに受け取ってくれるのだろうか。雑多な情報でなく、ニュースだからこそブランドの力は必要である。多数の市民記者を抱え、韓国の政治を動かす存在にもなったオーマイニュースが念頭にあるらしい。しかし、ライブドアという出自自体が「日本のオーマイニュース」になる可能性を絶った――ライブドアPJ関係者に忠告し忘れた「欠陥」とはこのことだ。

 市民記者への道は「市民メディア・インターネット新聞JANJAN」で既に開かれているが、大繁盛とはなっていない。体制寄りだった韓国の既成メディアと、日本は事情が違うからだ。ブログ形式でのニュース配信だって独占できるものではない。ここに来て既成マスコミがネットに攻勢を掛ける動きをした。神奈川新聞が無料会員制コミュニティーサイト「カナロコ」を作ったのである。エリアライター「ホロホロさん」を募って、地域のニュースをブログの形式で発信させている。これにはコメントもトラックバックもある。新聞本体からの気になるニュースにコメントも出来る。新聞業界で絶えてなかった本当の双方向交流を意識させる。4月からは会員のみのサービスになり、読者の囲い込みを狙っている。

 販売店というクッションを置いてしか読者を把握していなかった新聞業界では、最近、会員制の読者囲い込みが目立ってきている。神奈川新聞の試みが成功すれば他の新聞が続くだろう。私も随分前に進言したことがあるが、当時は聞く耳を持つ人は無かった。いや、88年からの短命ネットこそ双方向交流そのものだった。完全匿名の読者群との恐るべきハイレベルなやり取りを、当時を知る者は「ネット草創期の桃源郷」と思い出す。いま問題点の一番はサイトを運営する、柔軟性がある人材がどれほどいるかにある。神奈川新聞の動きをうけて「ネットは新聞を殺すのかblog」の「囲い込むな、解き放て」は「囲い込みを目指すな」と檄を飛ばすが、新聞業界の人間がトレーニングをするには囲い込まれたくらいの環境がちょうど良い。アニメ「風の谷のナウシカ」の言葉を借りれば「失われし大地との絆を取り戻す」第一歩になる。

 その”マイナーリーグ”だって完全閉鎖空間ではない。ソーシャルネットワークと違い、希望者は会員になれるのだから、何が語られ、論じられているかは自ずと広まる。横のつながりを作るボランティアがいれば、論壇系のネットワークが自然に構築される可能性もある。かくして、純・匿名で勝手なことが言い回れるネット空間は、相対的にどんどん狭まって行こう。