臓器移植法改正2案でますます混迷 [ブログ時評24]

 自民、公明両党の与党政策責任者会議は臓器移植法の改正案として出された2法案を了承、それぞれが賛同する議員を募り、今国会に議員立法として提案されることになった。臓器の提供を増やしたい趣旨は同じでも2法案は内容が異なり、斉藤案は現行法の枠組みを守ったままで臓器の提供年齢を15歳から12歳に下げたもの。河野・福島案は脳死を人の死とする方向に踏み出し、本人の生前意思表示がなくても家族の同意によって臓器提供が出来るようにする。

 現行法では生前意思表示により臓器提供する人には脳死が死であるが、しない人は脳死になっても死んでいない。これを守る斉藤案に比べ、河野・福島案は「脳死=死」とすっきりしているかに見えて、実は違う。提案者・河野太郎氏は「そう単純に『脳死は人の死』ではない」で「本人が生前に脳死を人の死と認めていない場合や家族が脳死を死と認めない場合には、『法的脳死判定』を拒否することができるようにした。脳死状態であっても、『法的脳死判定』が行われない以上、脳死にはならない。だから、脳死を人の死と考えない人は『脳死』にはならないことになる」と説明している。もともとの河野案は「脳死=死」だったのに大修正が加わった。

 3度目の腎臓移植を経験しているという「偽らんだむ日記ADVANCE!!<出る杭は打たれてもやっぱり出るぞ編>」の「朝日新聞『三者三論』」は河野氏について積極面を評価しつつも「ただね、脳死になったら、と普段に考えている人はいない。その必要もない。だから法改正。ってのは乱暴だなぁ。こういうこと言うと、やっぱりムリヤリな臭いがしてくるな。嫌がる人がでてくるな、僕も含めてだけど」と、疑問を投げる。

 「私憤を国会に持ち込む議員」(二条河原落書)は河野氏が父親・洋平氏(衆院議長)に生体肝移植をした経験が暴走を招いているとみる。術前の説明と違って大きなリスクを感じ「騙したな。こうなったら、生体移植をゼロにできるよう、脳死体からの移植を推進してやる」となったのだとみる。

 専門家たちも動き出していて、脳死・臓器移植法研究会が何年かぶりに復活した。「脳死・臓器移植法研究会」(刑法授業補充ブログ)は「臓器の提供が問題となる場合に、脳死判定だけを拒否する場合というのは実際上もほとんどなく、移植医の側からもこのような例外は理解しがたいという指摘がなされた」「本来は脳死判定について一般的に家族に拒否危険をみとめることによって脳死反対者の批判を回避しようとしたことと、現行法において脳死判定は臓器移植の場合のみにおこなわれるということをよく考えずに結合させたために、このような矛盾した提案になってしまった」との議論があったことを紹介している。実際の病室で移植関係者と家族の間で、また混乱必至とも思われる。

 再び「私憤を国会に持ち込む議員」にある「『脳死』は人の死ではない」ことを主張することと、難病で『移植でしか治る可能性は無い』と医者から宣告された方たちを救済することとは、矛盾しないと私は考えている」というのは、かなり多くの方の気持ちだろう。その道筋はずっと前から見えている。私の連載第8回「臓器移植法と脳死・移植の行方」は「足りなかった科学者の謙虚さ」の項で次のように分析している。

 医者にとっては「ノー・リターン」状態は「死」かもしれないが、患者と家族にとっては直ちに「死」ではない。戻ってこないかもしれないが、完全に彼岸に行ってしまったのではない、そんな中間状態を経て死に至るというのは、日本人にとってなじみの死生観念である。せめて、「私たちの判定はノー・リターンを保証したものにすぎません。患者さんが死の淵をさまよいながら、何かの意識を持つといったこともあるかもしれませんが、それは現代医学では不可知なことです」と、分からないことは分からないと明言する科学者の謙虚さをもって説明してくれていたなら、事態は大幅に変わったはずだ。現在の脳死判定技術で「全部の脳が死んだ」と宣告できると強弁して変えない、私に言わせると非科学的な態度の結果、それなら、脳死判定をするのは臓器提供意思のある人に限りなさいという法律が出来たのだ。