第44回「少年犯罪・子供たちの新しい『荒れ』」

 中学生によるナイフ殺人の連続は、先行した神戸の児童殺傷事件以上の衝撃を社会に与えたようである。文部省は3月10日、「文部大臣緊急アピール」を出すに至った。「君たちに訴える。ナイフを持ち歩くのはもうやめよう。学校に持ってくるのもやめてほしい。君たちが明るく前を向いて行動してくれることを、切に願っている」「悩みや不安は、遠慮なく友達やお父さん、お母さん、先生など大人たちに相談しよう。私たちは、君たちの言葉を受け止めたい」。'80年代の荒れた学園でツッパリ組を力で押さえ込んだ管理教育も、どの子とも知れずに起きる新たな『荒れ』の前には自信を失っているかに見える。「神戸事件」は特殊なものと受け止められかけていたが、ナイフ殺人と合わせて、いじめや不登校の増加といった問題と同様に、現在の教育現場が抱える荒廃の一噴出相になった。解決策が手軽にどこかで見つかる問題ではないが、インターネット上に少年犯罪を考える材料は多すぎるほどある。

◆先進国での教育現場の荒廃ぶり

 教育現場の荒廃をこの国だけの問題と考えるのは間違っている。米国のニュース特集番組が、ナイフを持っている生徒を、教師が自衛の距離を保ちながら説得するトレーニング場面を放送するのを見たことがある。その真剣度はひと味違っていた。

 '93年に出版された「子育てのゆくえ」(リンク切れにつきWayBackMachineから)の筆者、ジャズ音楽家松居和氏は「現在の日本は他の外国に比べて生活環境がかなりいい。特に子どもを育てる環境ということを考えると抜群にいい。日本で教育に関わっている人は首をかしげるかもしれないが、これはあくまでも比較論で、海外(ここで私が言うのは主に欧米なのだが)の環境が急速に悪くなっているせいもある。海外で活躍している音楽家や芸術家が、ある時期になると日本へ帰って来る。日本より海外で評価され活躍の場が多い人でも、ある時期になると帰って来る。それは、たいてい子どもが小学校に入る時期と一致している。私は親として、子どもの育つ環境ということを考える。私はロサンゼルスで娘を育てている。今はまだ4歳だから、環境はほば家庭で作ることができる。しかし、子どもが学校へ行くようになったらどうするか。学校での環境は私個人の力ではどうすることもできない」と、娘が学齢になったら帰国する決心をした。

 「1992年、米国人死亡統計」(リンク切れ)からこんな引用をすると、米国に何があるのか見えやすいだろう。「先ず15〜25才の青少年で見ると死亡原因の第1位は事故死で、第2位が殺人、第3位が自殺となっている。殺人事件被害者の男女比では少年が少女の約6倍と、明らかに若さにまかせた無鉄砲な暴走が事件を誘発している実態がうかがえる」「例えば日本では中学生などの『いじめ』による自殺がよく問題になるが、米国で年間に自殺する15〜25才の青少年は1992年度、4,693人 、同、5〜14才でも300人近くに達し実は日本などよりはるかに多い。米国の識者があまり日本の『いじめ』などについてコメントしようとしないのは、米国自身のこういった現実を知っているからである」「このような数字から私達はいったい何を学ぶべきなのだろうか。知人(米国人)がいつも言っているように『みんなが自由に振る舞えばこれぐらいの犠牲は出るんだろう』と割り切って考えるべきなのだろうか、それとも『これは米国社会に内在する基本的な欠陥の一つ』と、よく言われる『個人主義の行き過ぎ』を認識すべきなのだろうか。私自身どちらとも決めかねるが『自由にはそれ相応のコストがかかる』こと、だけは認識しておいた方がよさそうである」

 「教育Today 岐路に立つ日本の教育(10)イギリスの学校で起こっていること」では、「12,458人―これは、1994、5年度にイングランド(イギリスの東部地域)の初等・中等学校から永久追放された子どもの数、日本流にいえば退学させられた子どもの数である。うち16%は小学生、84%が中等学校生(5年制)である。中等学校生のうち、54%は1〜3年生(日本の中学生に相当)、残りの45%は4、5年生(日本の高校1、2年生に相当)である。この情報に接した時、筆者は驚きと同時についに来るところまで来たか、と思った。というのもイギリスでは1970年代後半以降、生徒の退学・不登校(truaucy)、校内暴力・対教師暴力、いじめなどが問題化していたからであり、もう一方で、1980年代以降、学校教育の質の改善を目指したラディカルな改革が進められていたからである。この永久追放生徒数は、1990、1年度には2,910人であったが、1993、4年度には急増し11,000人を越え、1994、5年度には冒頭の数になった」と、エリート向けのパブリックスクールしか思い浮かばない我々に知られざる英国の事情が語られている。

 「平成9年度学校基本調査速報」が報告している「平成8年度間の長期欠席者(30日以上の欠席者)数は、小学校7万8,000人(前年度より7,000人増加)、中学校13万人(前年度より1万4,000人増加)の合計20万8,000人で3年連続増加し過去最高。このうち、『学校ぎらい』を理由とする長期欠席者数については、小学校1万9,000人(前年度より3,000人増加)、中学校7万5,000人(前年度より1万人増加)の合計9万4,000人で調査開始の平成3年度間以降5年連続増加し過去最高。全児童・生徒に占める比率は、小学校0.24%(前年度より0.04ポイント上昇)、中学校1.65%(前年度より0.23ポイント上昇)で過去最高」は、まだ可愛らしい数字なのかもしれない。先進国型の荒廃の闇は深そうだ。

◆子供の心にどんな変化が

 ベネッセ教育研究所が「中学生は変わったのか」で、'83年と'95年、10年余を経て中学生の意識がどう変化したか、神奈川・埼玉・東京の中学1〜3年生1,737人で調べた結果を掲げている。極めて大きな変動が善悪の感覚で示されている。「放置してある他人の自転車に乗る」ことに「とても悪い」と回答した割合は、'83年の64.8%が'95年は47.3%に落ちた。同様に「とても悪い」とした回答は、「自室でタバコをすう」では62.8%から39.5%に、「おつかいにミニバイクを運転していく」が51.1%から25.8%、「かるくパーマをかける」が40.8%から22.1%に、など大幅減である。「次の人が入院したと聞いたら見舞いに行くか」と聞いて、回答の「きっと行く」と「行くかも」を合計したら、親しい友達では8割以上で変化はないが、「同じ学級のふつうの友だち」では62.9%から46.9%へ、「担任の先生」では37.2%から27.9%へ、「校長先生」では15.8%から6.4%へ下がっている。親との関係は重要なものを含んでいるので、表として引用する。以下の数字は「とても」と「かなり」の「うまくいっている」割合の合計である。

 「1983年の中学3年生は、親離れの傾向が認められた。しかし、1995年の中学3年生は親に依存する傾向が著しい」と分析されているが、私はそうは受け取らない。'95年の中学生は親との関係で、かなり早い時期から低空飛行に移っているのではないか。学校でも家庭でも子供の心理空間は狭まっているように感じられる。将来の仕事についての回答で、「多人数と一緒にする仕事」や「誰でも可能なやさしい仕事」「ハデな仕事」の支持が増え、「責任のある困難な仕事」が遠ざけられているのだから、軽薄短小好みの世相の反映がある。一方で、豊かさゆえの規範感覚の麻痺、米国ほどバリバリではないが個人主義への傾斜は隠すべくもなく、これも大人からの反映だろう。

 「“いじめ”問題に関する一考察」(リンク切れにつきWayBackMachineから)は、型にはまった議論になりやすい「いじめ」に新しい切り口を提供する。いじめの説明としてよく見られる「抑圧された慢性的ストレス状況」「が子どもに欲求不満をもたらし、抑圧された衝動が、集団の弱い部分への攻撃となって現れるという図式」や、「一般に攻撃の衝動には何らかの歯止めがかかるのが普通であるが、歯止めがきかなくなったために、いじめが表出され」て「歯止めがきかなくなったかという理由としては、『規範意識』の弱体化ということで説明されることが多」く「『正義感』を持つ子どもが少なくなったというのも同義である」などの考え方に疑問を呈する。実は今の子供たちは、人と人が関係する仕方に失敗してしまうのではないか。日常の場面で互いに表現行為とその解釈を繰り返して理解を進めている「相互作用の観点から『いじめ』を捉えなおしたときに、『いじめ』問題へのこれまでの捉えかたに問題があるということが明らかになったと思う。『いじめ』にみるもっとも重要な問題は、いじめっ子・いじめられっ子のどちらかに非があると言うような問題ではなく、子どもの世界の相互作用能力・関係性能力全般の低下の問題だと指摘することができる」と説く。

 「こうした関係能力の低下をもたらした要因について指摘しておこう。それは、一言で言えば、現代の子どもから濃密な人間関係が消え去ったということである。家庭では核家族化や少子化の傾向が、地域社会では子どもの群れや『近所の大人』の消失が一般化して久しい。集団の中で、多様な人と相互作用を繰り返し、幼い頃から揉まれて、自己表現と配慮とを身に付けるような社会化の過程は遠く過ぎ去ってしまったのである。現代の若者の傾向として、嫌人化の傾向が指摘されるが、決して人を嫌っているのではない。幼い頃から希薄な人間関係の中で育ってきたためにそれまでの人間関係の在り方とは異なった関係・態度が表現されているだけなのである。そして、これと同じ土壌に生み出されたものが、いじめなのである」と主張する。

◆希望は与えられるだろうか

 ベネッセ教育研究所の調査からもう一つ、国際比較調査「子どもにとっての教師」を引用したい。東京、ソウル、北京、ミルウォーキー、オークランド(ニュージーランド)、サンパウロ、世界6都市の小学校5年生を対象に学校生活と教師像をアンケート調査している。「学校に通うのがとても楽しい」「いまの学級でとてもよかった」「いまの担任でとてもよかった」と答えた割合は、東京がいずれも最低だった。教師に「『がんばったね』と励まされた」「悩みを聞いてもらった」、あるいは教師が「教え方がうまい」「子どもから尊敬されている」などの職業的属性と言える項目も、東京が驚くほどの最低値である。「今回の調査を通して、2つのタイプの教師像が浮かんできた。1つはミルウォーキーやオークランドの教師で、学校の中に活動の場を限定はしているが、一人一人の子どもを励まし、動機づける『カウンセラー型』の教師である。もう1つはソウルや北京の教師で、個別というより集団を通してではあるが、放課後まで子どものことを心配する『保母(父)型』の教師である。そうした中で、東京の教師はミルウォーキーの教師のように個別指導型ではなく、かといって、ソウルのように放課後まで熱心に子どものことを心配する聖職的な『保母(父)型』でもない。そうした中途半端さを感じる。その曖昧さが子どもからの評価の低さを招いた背景であろう」と、まとめられている。

 都教組「各部のとりくみ」(リンク切れ)にある「世田谷では、区職労、東京土建、新婦人などと一緒に実行委員会をつくって750名の『世田谷の子どもと教育を考える大集会』を成功させました」「90%の教職員が『忙しい』と答えたアンケート結果を発表した大山副委員長は、『このアンケートの宝は『毎日の実践で大事にしていること』の項目だ』と、子どもの思いをうけとめながらその成長を励ましている教職員のとりくみを紹介しました。これからのとりくみの展望をひらく集会となりました」といった、先生たちの主観的な頑張りを否定するつもりはない。しかし、主観的に忙しいから、客観的に大丈夫なはずはない。技術を磨きなおして本当のプロフェッショナル教師になるしか、この国の先生たちに道は残されていないと、私は考えている。この点で、残念ながら文部省の指導は全く頼りにならない。

 「93年日本弁護士連合会のカウンターレポート・問われる日本の人権《4》子どもの権利問題」(リンク切れ)が、過度な受験教育や体罰、いじめ、不登校、校則、それに、内申書など教育情報の公開問題まで集約している。高校入試で中学校から出される内申書を本人に全面開示しているのは、都道府県レベルでは大阪府だけだったが、今春から兵庫県も加わった。教育現場にある、こうした抑圧的な関係をひとつひとつ解体して、子供と教師の間の風通しを良くすることが無条件で必要だ。

 そして、「いい大学いい会社(いい官庁)」という図式以外の生き方に目覚めてもらわないと困る。行財政制度や金融業界の破綻、不始末を見ても、現在の教育システムが「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の人材を育ててきたことは明らかだ。この連載37回「ベンチャー再生の日を求めて」で考えたように、そんな生き方では、次の世紀にこの国を保つことすらできなくなるはずだ。ベンチャー企業といってもハイテクである必要はない。ローテク・ベンチャーの集積の上にハイテク・ベンチャーが乗っている図式が自然なのだと思う。本当に多様な生き方とは何か、社会全体で確保しておかないと、「いい大学いい会社」の一本道からドロップアウトした大量の存在を抱えて、これからやって来そうな、もっと本格的な教育現場での荒れに耐えることは出来まい。明日に希望が持てれば、苦しくても今日を生きられる――人生についての単純な法則を子供たちにも認めてやらなければならない。