第54回「明治維新(下)循環社会から膨張社会へ」

 19世紀のアジアで、なぜ日本だけが欧米列強と対抗する国に成長できたのか。この疑問にはいろいろな議論がされてきたが、すっきりさせてくれるものがない。今回、インターネットを走り回っても、十分な答を得るには至らないかもしれない。それでも考えてみたいチャーミングなテーマである。
 なお、前回の「明治維新(上)志士達の夢と官僚国家」で取り上げた官僚制度の建設者、大久保利通について、小学校の先生が授業に取り上げるために制作したページを見つけた。「大久保利通と明治維新」で、「大久保は、自身のような資質を持つ政治家の養成を学校教育に期待していた。しかし大久保の死後、本格的に整備された学校体系は、統治機関に依存する官僚は育成したが、大久保のような政治家の育成には失敗した」というコメントを引用していることからうかがえるように、相当にハイレベルである。


◆新時代に女性もスタンバイしていた

 前回見たとおり、幕末の科学技術では佐賀藩がずば抜けていた。「佐賀藩における科学技術史」はそれを考える実証的な労作集で、砲身内にスパイラルが切ってある青銅砲の写真など迫力がある。中でも「佐賀藩の科学技術 5 <鍋島直正の実像と虚像>」に注目したい。幕末の佐賀藩の対外的な動きと、藩内の西欧技術移転推進者の実像が描かれる。それ自体も面白いのだが、会津戦争のくだりに目が釘付けになった。

 「城にたてこもった会津兵の守備は固く降伏させる事はできなかった。倒幕軍も包囲したものの決定的な攻城兵器を持たず勝負の決着はなかなかつかないと見られていた。八月二六日、会津城の近くの小高い丘、小田山を占領したことにより佐賀藩多久兵のアームストロング砲を山上に運び上げ会津城内へ砲撃を開始した」

 「アームストロング砲の破裂弾がタイムヒューズ付きで着弾と同時の破裂ではなかった」「弾丸は着弾後、数分間経過して破裂し、現在のように着弾前、着弾、着弾後に爆発するように細かく操作することができなかった。砲弾は発射の時、砲弾の導火信管に火がつくと飛翔中も燃え続け着弾後、十分な時間が経ってから破裂するようになっていた」「打ち込まれた砲弾を水に濡らした厚布で砲弾の導火線を消して爆発を防いでいた。山川大蔵夫人も城内に打ち込まれた砲弾を処理中に砲弾が破裂し戦死している。籠城中の城内でのアームストロング砲弾の処理は婦女子の役目だったようで、通常は打ち込まれた砲弾を爆発しても被害が及ばないところに運ぶ余裕があることを示している」

 熱く焼けて、いつ爆発するか分からない砲弾を、塗れ布で包んで運ぶ仕事。当時の大砲の多くは砲弾を前ごめしており、その際に未燃焼の火薬が暴発して砲手の命を奪うことがたびたびあった。新式のアームストロング砲は砲弾を後ろからこめる形式に改良されていたのに、旧式の大砲を扱う砲手と変わらない勇気と判断力を、保守的とされている、会津の女性達が発揮したであろうことに、少なからず感動した。

 志士の世界には男達の名前しか出ていないが、この会津の女性とほとんど同じ世代の女性達が自由民権運動では大きな活躍をする。「自由民権運動の捨石 景山英子」を見たい。

 大久保の暗殺された年のこと。「『民権かぞえ歌』が土佐から全国の山村、海辺の村々にまで流行っていったのは、西南戦争の翌け年でした。一つとせ、人の上には人はなき、権利にかわりがないからは、この人じやもの 三つとせ、民権自由の世の中に、まだ目のさめざる人がある、この哀れさよ」「女権拡張思想をも含んでおり、ために多くの政治に目覚めた女性たちが加わっていました。各地を遊説して『民権ばあさん』と呼ばれた土佐の楠瀬喜多、『男女同権論』という『弁舌さわやか論調高尚』な演説をした、豊前中津の巡査の妻など、そのすそ野は広いものでした」

 岡山の教師、景山英子は明治15年、17歳で民権思想に触れ、過激な爆弾闘争に走り、国事犯として服役後にさらに社会主義に至る女性で、今となっては歴史の闇に消えている。

 やはり正史としての歴史からは忘れかけている幕末の出来事に、蝦夷でのアジア初の共和国宣言がある。「榎本艦隊が館山へ脱走......そしてお咎めなし」に紹介されている江戸開城の混乱の中で、幕府海軍副総裁の榎本武揚らはフランス軍人も含め3000人で蝦夷に逃げ出し、その地で投票により榎本を共和国総裁に選ぶ。

 「セゾン劇場 榎本武揚」は安部公房の戯曲についてのものだが、石鹸製造の技術など史実が多い。「函館の五稜郭での戦いに破れ、江戸の牢につながれた榎本」「ら旧幕臣は、そこの囚人たちを教育し、再び反政府運動を広げ、北海道に共和国を築こうとしていた。囚人たちは、シャバで、殺しやスリ、さらには偽金作りをしていたという凶悪犯ばかり。その彼らに、養鶏や石鹸作りといった生活基盤を支える 産業の大切さばかりではなく、航海術や戦闘の方法、果ては時限爆弾そのものも牢内で開発してしまうほどの教養を身につけさせてしまう」

 榎本が欧州留学で身につけてきた技術は本当に多彩だった。「榎本武揚購入の電信機」に「彼は、ロッテルダムで幕府が注文した軍艦開陽丸の製造を監督中に、これからは通信手段として電信が重要になると考えて、帰国したなら江戸・横浜間に電信を設置しようと、フランスのジ二エー社製モールス印字電信機2台を購入し、操作方法等を学びました」とある。結局は初代の逓信大臣になる榎本のような存在を含めて、男女、貴賎を問わず当時の日本が持った人的資源の幅広さ、厚さを考えないと、維新を契機にした近代化を、上からの改革、官僚制による国家の確立とだけ、表面的に捉えてしまう恐れが強いと感じる。


◆近代化が置き去りにした理想郷

 明治村を紹介する「明治の商業」に時の雰囲気を伝える発言がある。「『日本人はいつも、まっすぐに行くよりも早くいくことに熱中するので、ルイ11世から途中をぬかしていきなりロベス・ピエールへと飛び移る。それはちょうど彼等が歩行者用の細道から鉄道へと移るのににている』これは、明治政府の法律顧問として来日したフランス人ブスケの言葉です」

 「緊急提言:世紀末ニッポンへの処方箋」の「情報化狂騒の前に、ガーデン・アイランズを取り戻せ」の項にこんな指摘がある。「江戸時代末期、イギリス人が、当時は辺鄙な寒村だった横浜に初めて降り立ったとき、その美しさに息をのんだといいます。手入れの行き届いた田畑を見て、『これは庭か? 』と。『日本の農業は園芸だ。まったく隙がない』と感嘆した。江戸に来ても同じです、どこを見ても緑に溢れている。彼らは『江戸はガーデン・シティである、そして日本はガーデン・アイランズだ』と驚いたのです」「園芸や庭というのは、実はイギリス人が自分たちの文明の中で最も他に誇ったものでした」

 これは、先日のNHKテレビで、英国人が百年、二百年以上前の田園風景や天然と見間違うようになった大造園を大切に保存し、遊んでいる様を見て、私にも実感できた。

 「ところが近代日本の方向性を決定づけた明治四年の岩倉使節団は、イギリスの文明の本質を工場や鉄道・造船所だとみなし、『近代化とは都市化だ、工業化だ』と即断してしまった。しかし、イギリス人自身は、それらはあくまで手段であって、人間の本当の幸せはカントリーサイドにあると考えていたのです」。資源開発の限界点に達していた「江戸時代の日本は、これ以上いわゆるフロンティアはない、という条件下で、国自身がリサイクルをやっていたから、結果的にはガーデン・シティ、アルカディア(理想郷)と、当時のイギリス人が絶賛するような国になっていたのです。しかし、そのほんとうの価値を、私たち日本人は知らなかった」

 作家石川英輔氏の講演「江戸社会のリサイクル構造」は、このガーデン・シティが成立した裏側のマンパワーをこう述べている。

 「もっとも大規模にリサイクルが行なわれたのは、稲藁だった」「人口の80%が農民だった江戸時代には、稲作に従事していた人が人口の半分以上を占めていて、幕末期には米の生産量がほぼ3千万石(450万トン)に達した。稲藁の生産量もほぼ同じくらいあったが、藁は、今と違って産業廃棄物どころか非常に用途の多い貴重な資源で、稲作の目的の一つは、藁を得ることだったともいえる」「得られた藁の50%程度は、堆肥、廐肥として田畑にもどし、30%は、いったん燃料として燃やし、できた灰はカリ肥料、土の酸性中和剤として田畑にもどした。残りの20%は、みの、笠、ぞうり、わらじな、俵、こも、むしろ、縄など、衣食住全般におよぶかそえきれないほどさまざまな製品の原料として使った」「わら製品は、あまり耐久力がないので、使えなくなれば、農村では堆肥、町では燃料として最後は灰になるが、その灰でさえ、専門の〈灰買い〉という業者や農民が、巡回して買い集めた。灰は貴重なアルカリ物質として、膨大な需要があったからだ」

 年々、太陽の光が注いだエネルギーを植物が固定する。人間はその固定された範囲で資源を使っていたのが江戸時代だった。

 石川氏の著作を紹介しながら「江戸時代に学ぶ持続可能な社会システム」は主張する。「そこで明らかになるのは、『リサイクル』『ボランティア』など、今日われわれがカタカナ英語で何とか『導入』し『定着』させようと努めている概念が、実は江戸時代後半の『ご先祖様』の生活にはしっかり埋め込まれており、しかも洗練の極致にあったにもかかわらず、『文明開化』と『高度経済成長』により無残に破壊されたらしいということだ」「それぞれの専門家が、現在の古紙回収のように町内を巡回していたため、こちらから出かけていく必要がなかったこと、修理・再利用のシステムが芸術と呼べるような域に達していたことが特筆されよう。その徹底ぶりは、ものを使いきり、その天命を全うさせることへの情熱といったものすら感じられる。資源が少ないという条件があったにせよ、豊かな精神文化が背景になければ維持できないシステムだろう」

 「市場と風土から見た幕末明治の日本と外国」は「日本の近代化は非常に特殊な成功例であった。当時が、国際的な緊張が一時期融けた幸運な状態にあったとしても、近代化に対する積極的な対応が可能になった様々な要因は、それ以前の国内で蓄積されていたのである」「明治時代の近代化において、日本は外国からの資金の提供を求めたことが一度もない。代表的な合弁会社である日本電気株式会社においても、アメリカの企業は特許と技術を提供し、世界で一番優秀な機械を提供する旨約したが、金は一銭も出していない。日本側が全額を提供したのである」と始まる。

 人も、技術も、社会システムも、その時、この国は独自の高みにまで達していたと断言して差し支えない。

 「江戸時代とはどんな時代か」を引用したい。「1790年代から1810年前後(寛政年間を経て、文化・文政期)江戸はこの時代最大の民衆文化を誇るにいたった。これらの文化の発展の背景には、貨幣経済の発展と全国的な交通網・情報網の整備、市民のほとんどが読み書きの能力を持っていたという一般市民の教育水準の高さ、大量印刷技術の確立、書物を中心としたメディア出版が事業として成立したことがあげられよう」

 明治の近代化とは、もともと蓄積していた資本や高めていた知的エネルギーの向け方を一気に転換した結果ではないか。そこに化石燃料、鉱物資源を大量消費する技術体系が待っていた。物質循環をほぼ国内に限っていた循環型社会から、物質の投入を際限なく拡大する膨張型社会に移ったとき、アジアへの拡張主義が宿命づけられていたと思う。梅棹忠夫さんが国立民族学博物館長だったころ「われわれ日本人は縄文の昔から、モノを作ることに異様な情熱を傾ける傾向がある」との説をうかがったことがある。その情熱の対象を国内に限っていた江戸期は、幸せな時代だったと言えよう。

 そして、維新から130年。この連載の第1回「空前の生涯独身時代」で紹介したとおり、この国の人口は間もなく、21世紀初めにピークを迎え、下降に転じる。「右肩上がり」の成長の基盤だった人口が減り始める「特異点」を前に、膨張型社会に見直しが求められているのも当然のことだ。